皆様こんにちは。日々ナチュラルとはなんぞやを考え続けているshioriです。
もともと我が家ではお正月に百人一首をするのが伝統行事だったのですが、ちはやふる映画化のおかけで最近ようやく周囲の人にも百人一首が浸透した(と思いたい)なかで、ふと「大好きな百人一首に登場するナチュラルを探してみよう」と思い立ちました。
古くから言葉の中に自然や季節を込めるのが大得意な日本人ですから、きっとたくさんのナチュラルがあるはず!
それではさっそく見ていきましょう。
植物で探す 季節の百人一首
和歌の中にナチュラルを探すとなれば、当然最初は植物が登場する歌を探したくなりますね。
実際に探してみると、植物が登場する歌は結構あるんです。
桜(五首)
日本人の心の友、桜は最も登場回数が多く、全部で五首存在します。
- いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほひぬるかな ―― 伊勢大輔
- もろともに あはれと思へ 山桜 花よりほかに 知る人もなし ―― 前大僧正行尊
- 高砂の 尾上の桜 咲きにけり 外山の霞 立たずもあらなむ ―― 権中納言匡房
- 久方の 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ ―― 紀友則
- 花さそふ 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり ―― 入道前太政大臣
まず明らかに桜という言葉が登場する歌が三首。これは分かりやすいですね。
また同時に使っている言葉から桜だと理解してもらおうじゃないかという挑戦的な歌も二首あります。
紀友則は「春の花と言ったら桜しか無いだろう!」と、
入道前太政大臣は「雪のように降る花といえば桜に決っているじゃないか!」と、
本当にそう思っていたかは分かりませんが、そんな日本人の感性を刺激してくる歌も興味深いものですよね。
紅葉(五首)
そして桜と双璧をなすもう一つの日本人の心の友こそが、紅葉です。紅葉が登場する歌も、六首存在します。
- 奥山に 紅葉踏みわけ 鳴く鹿の 声聞く時ぞ 秋は悲しき ―― 猿丸大夫
- このたびは 幣も取り敢へず 手向山 紅葉の錦 神のまにまに ―― 菅家
- 小倉山 峰のもみぢ葉 心あらば いまひとたびの みゆき待たなむ ―― 三条右大臣
- 山川に 風のかけたる しがらみは 流れもあへぬ 紅葉なりけり ―― 春道列樹
- あらし吹く 三室の山の もみぢ葉は 竜田の川の 錦なりけり ―― 能因法師
- 小倉山 峰の紅葉ば 心あらば 今ひとたびの みゆき待たなむ ―― 貞信公
紅葉の場合は、桜のような暗喩での登場はありません。
先程ご紹介した紀さんのように「秋の葉といえば紅葉してるに決まってるだろう!」という強気な人のひとりくらいいても良さそうなものですが(笑)
とはいえ、紅葉そのものの美しさを讃えた歌が二首存在し、特に菅家には「神様へのお供え物代わり」にまでされたことを考えると、日本人がいかに紅葉に心奪われてきたかが感じられて面白いものですね。
その他
日本人ほぼ共通の心の友以外にも、百人一首には様々な植物が登場します。
例えば、さしも(させも)草は美味しいヨモギの異称です。(歌の中では食べてないですが)
- かくとだに えやはいぶきの さしも草 さくも知らじな 燃ゆる思ひを ―― 藤原実方朝臣
- 契りおきし させもが露を 命にて あはれ今年の 秋もいぬめり ―― 藤原基俊
逆に食べ物として登場する植物もあります。若菜、つまり春の七草です。
- 君がため 春の野に出でて 若菜つむ わが衣手に 雪は降りつつ ―― 光孝天皇
日本人が馴染み深い木の代表、松も二首で登場。お得意の言葉遊びで「待つ」とかけられた歌もあります。
- 立ち別れ いなばの山の 峰に生ふる まつとし聞かば 今帰り来む ―― 中納言行平
- 誰をかも 知る人にせむ 高砂の 松も昔の 友ならなくに ―― 藤原興風
蘆(アシ)は短さの象徴。節と節の間が短いことからそのような使われ方をしているようです。
- 難波潟 短き蘆の ふしの間も 逢はでこのよを 過ぐしてよとや ―― 伊勢
- 難波江の 蘆のかり寝の ひとよゆゑ みをつくしてや 恋ひわたるべき ―― 皇嘉門院別当
その他にもさねかづら(ビナンカズラ)、菊、梅、チガヤ、しの竹、八重葎(ヤエムグラ)、笹、稲、楢(ナラ)、しのぶ草(ユキシノブ)など。実に様々な植物が登場するのです。
日本人の身近には昔から実にたくさんの植物が存在していた証ですね。
これぞナチュラルど真ん中ライフの真髄。
次回予告:四季で探す 季節の百人一首
さて、植物が登場する以外にも、季節を感じさせる歌はあります。
特にダイレクトに季節の名前が出て来る歌なんて、安直だと思うでしょう?
ところが実は歌全体で「その季節ならではの情景」を詠んでいることが多いのです。
常に季節を自らの肌で感じてきた日本人の和歌の世界、どうぞ次回もお楽しみに。