美しさを表す花々

みなさんこんにちは。日本語と自然に寄り添う栞です。
いつもどおり、今日も変化球でいきたいと思います。

みなさんは「立てば芍薬 座れば牡丹 歩く姿は百合の花」という言葉をご存知でしょうか。
あまりにも有名なので大体の方はご存知ですよね。
このように、日本語のことわざ・故事成語の中には美しさを表す言葉がたくさん存在します。
そしてそれらの中で引き合いに出されているものの多くが、植物たちなのです。
人が自然の中で見出してきた「美」の世界、ちょっと覗いていきませんか?

植物が登場する美の表現たち

立てば芍薬 座れば牡丹 歩く姿は百合の花

まずは冒頭でもご紹介した有名な都々逸。
美しい女性について、容姿や立ち居振る舞いを花にたとえた言葉です。
つまり芍薬も牡丹も百合も、それぞれに代表的な「美」の象徴として認識されていたということですね。
もうちょっと掘り下げて見てみましょう。

芍薬は、すらりと伸びた茎の先端に華麗な花を咲かせます。
「立てば芍薬」のたとえは、芍薬のすらりとしながら華やかな花姿を、美人の立ち姿とかけているということでしょうか。

また牡丹は、枝分かれした横向きの枝に花をつけます。
「座れば牡丹」のたとえは、牡丹の少し背が低くて横向きに咲く花姿を、美人の座った姿にかけているのでしょう。

さらに百合は、するりと咲いた花が風に吹かれて揺らめく姿が美しい花です。
「歩く姿は百合の花」のたとえは、百合のたおやかに揺らめく花姿を、美人の歩く姿をかけているのかもしれません。

このように華麗な姿で人々を魅了する3種類の花すべての要素を持った美人だと思うと、それはもう「絶世の美女」と表現せざるをえないという気分になりますよね。
ぜひ該当する人をひと目見てみたいものです。

いずれ菖蒲か杜若

菖蒲(あやめ)と杜若(かきつばた)はとてもよく似た美しい花姿をしています。
なんとプロでもたまに見分けるのが困難なことがあるほど似ているんです。
そのことから「どちらも美しく甲乙つけがたいので選択に迷う」という意味で使われます。
これも美女(がしかも複数人いる状況!)に対して使用されるので、まさに菖蒲・杜若が「美」の象徴というわけですね。

なおこの言葉は、源頼政が妖怪を退治した褒美として菖蒲前(あやめのまえ)という美女を賜った時のエピソードが元になっています。
そもそも美女の名前として採用されるほどには、菖蒲が美しい花として愛されていたことが伺えますね。

柳は緑 花は紅

柳(やなぎ)が緑色をしていること。花が紅色をしていること。
それらはごく当たり前のことで、自然のままで人の手が加わっていない様を表しています。
この言葉は「自然はあるがままの姿が美しい」という考え方が反映された喩えなんですね。
また「物事にはそれぞれ自然の理が備わっている」という意味も含んでおり、禅宗では悟りの心境を表す言葉でもあるのだそうです。

目に付きやすい花の美しさだけではなく、柳の青さにも焦点を当てているところが、また一層「自然の美」を感じさせます。
ぜひ使ってみたい言葉ですね。

柳暗花明

柳暗花明(りゅうあんかめい)とは「柳が色濃く茂ってほの暗い中で、花が咲いている部分は明るい」という意味の言葉です。
こちらも柳と花の組合せですね。
しかし「柳は緑 花は紅」がそれぞれの姿どちらも美しい、といった意味であるのに対して、「柳暗花明」は柳と花がセットになった風景を美しいと感じているようです。
単体の美と、相乗効果の美、どちらも楽しんできた人々の感性が表現されていて大変興味深いですね。

最も大きな美の象徴は「花」

柳とセットにしなくても、特定の花を指定しなくても、やっぱり「花」はただそれだけで美の象徴と言えるようです。
それは人それぞれの記憶の中に確かな美しい「花」の風景が存在しているからかもしれません。
みなさんはこれらの言葉を読む時、どんな花を思い浮かべますか?

花も実もある

まず「花」はぱっと目につく美しさということで、人の外見を表します。
対する「実」は内側に隠された心の美しさと言え、人の内面を表します。
ゆえにこの言葉は「外見が綺麗なだけでなく、内面も充実していること」を喩えています。
いわゆる名実ともに優れているという状態ですね。
また、表面に見えやすい人情を「花」とし、その裏側に隠れて見えにくい道理を「実」として、「義理も人情もわきまえていて手落ちがないこと」を喩えた言葉でもあります。
漠然としながらも確かに人としての美しさを言い表しており、この言葉には確かな称賛の気持ちを感じ取れることでしょう。

両手に花

もうひとつ「花」を女性に喩えた言葉の登場です。
この言葉はみなさんお馴染みですよね。
主に男性が女性2人を独占しているような状況で使われます。
とは言っても元々は「美しいものや素晴らしいものを両手に持つ」という意味を持っていますので、本来ならば女性に対してだけ使うわけでもありません。
この言葉が広く普及したことからも分かるとおり、やはり「花」は美の象徴として馴染み深く、それゆえに女性と繋げて考えられがちだったのでしょうね。

沈魚落雁閉月羞花

最後に呪文のようなこの言葉をご紹介します。
この連語の読み方は「ちんぎょ らくがん へいげつ しゅうか」
おそらく今回ご紹介してきた中で最も「美人」を称える言葉と言えるのではないでしょうか。
沈魚は、泳いでいる魚も見惚れて水底に沈んでゆくほどの美人
落雁は、空を飛んでいる雁も見惚れて羽ばたきを忘れ落ちてしまうほどの美人
閉月は、空で輝く月も恥ずかしくなって雲間に隠れるほどの美人
羞花は、美しく咲いている「花」も恥ずかしくなって萎んでしまうほどの美人
それぞれの言葉はこのような意味を持っています。
つまり自然の中に存在する4つの「人間以外のもの」すらも魅了される、それほどの褒め言葉なのです。

番外編:美しさが喩えられてはいるけれど……

花は桜木、人は武士

花の中では桜の花が最も美しく、その桜の散り際のように、死に際が潔く美しい武士こそ最も優れている、という言葉です。
桜は昔から本当に日本人に愛されており、蕾が花開きやがて散るまで、その一瞬一瞬すべての様子が「美」の象徴としてたとえられています。
この言葉で取り上げられている、ぱっと咲いて短い間に潔く散っていく様も、多くの日本人が「美しい」と感じていることでしょう。
しかし時代劇好きの筆者としても「武士の死に際の潔さが美しい」という感覚は理解できますが、だからといって武士が一番優れているというのは……おっと、この話はここまでにしておきましょうか(笑)

薊の花も一盛り

薊(アザミ)といえば、まず刺々しいイメージを持っている方が多いのではないでしょうか。
この言葉もそのとおりで「普段は刺々しくあまり美しいイメージがないアザミでも花を咲かせる時期がある」ということを表しています。
そこから転じて「そんなに器量よしではない娘でも、年頃になるとそれなりの魅力が出るものだ」という喩えだそうです。
美しさを表しているはずなのに、人に対してもアザミに対しても妙に失礼に感じる言葉ですね。

人の心に刻まれた美の象徴

今回ご紹介してきたように、花は人々にとって最も身近な美の象徴でした。
美しさを表す言葉として「花」が登場する表現がいくつも生まれてきたのがその証でしょう。
それほどまでに人々の心に深く、花=美しいものとして根付いていること。
まるで人類共通の原風景のようでとても興味深いです。
みなさんも是非、身近な自然を取り込んだ言葉を探してみてくださいね。